日本の家具のルーツを訪ねて(12)

 その頃、「D・H」生産に携わる業者は、過保護といわれるほどの恵まれた条件で作業を進める事が出来た。家具用材はいうに及ばず、電力、輸送、食料の面まで便利な計らいを受けた。 特に代金の支払いについて、業者に有利な条件で取引された。それは、受注の際、見積書を提出せず、数量と品名のみで「P・D」(注文伝票)を受け納入完了時に「物価庁」(当時、臨時に設けた役所)へ原価計算書を作成、提出して査定を受けて支払いを受けた。

 壊滅状態であった家具産業も一夜にして甦った。独り「D・H」家具業者のみならず、市販品(既製品)を扱っていた一般家具の製造業者も一斉に活気を取り戻し、好景気の波は業界全体に漲った。 「D・H」の発注は、昭和22、3 、4 年と、だんだん先細りとなり、臨時に設けた「物価庁」「特別調達庁」も、残務整理に数人残すだけで閉鎖した。 専門に「D・H」のみを造っていた工場も民間の受注に転向していった。もともとこの大きな調達命令を滞りなく消化するためには、官民一致して努力しなければならなかった。

 業者は自ら、全国各地に特殊家具生産協力会という任意組合を作って資材の購入、輸送を担当し、次には特殊家具検査協力会に改称、インスペクター(検査官)の代行を兼ねて、全国を飛び廻った。このように無軌道とも思われた協力が結果的には納期に間に合い「G・H・Q」からサンキューといわせた所以であろう。

 昭和20年、無条件降伏した当時の日本は台湾、沖縄、樺太、千島などを失い、物質と名のつくものは何もなくなった。文字通り、零(ゼロ)からの出発であった。それが幸運にも進駐軍用家具の生産調達の命を受け、全国の業者は無我夢中でまる二年、働いた。 その結果は、旧に倍する財産を得る事となった。

 好況の波は、他産業にも移り広がった。家具産業は「杉田屋」を開祖として、順調に発展し、戦争で壊滅状態になったが再び起き上がった。私は、これを「昭和の中興」と名付けたい。

 擱筆するに当たり、愛読いただいた読者に感謝する。



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