日本の家具のルーツを訪ねて(2)

 

 家具製作の元祖とも云われる杉田忠五郎は新進気鋭の青年実業家であったが、なかなかの艶福家で夫人の「お鯉さん」は、もと柳橋の芸者あがりの美人で夫婦仲はすこぶる良く、出勤、退社はいつもアベックであった。 部下の人達にも優しく従業員の人望厚く、入社を希望する者、後をたゝず、建具職人、指物師など職種が似かよっている連中は、一応入社してから、工具の改造にとりかゝるのが常であった。

 使用する木材は、針葉樹(桧、杉、松)を一切使わず広葉樹( 楢、欅、桜)のみであったから、鉋についても一枚刀(イチマイバ) を避けて二枚刀(ニマイバ)とし、鋸も自分側に引かず、先に押すなど弦(ツル)を付けて使用した(中国から来た職人に多し) 。当初、日本の職人には戸惑うことが多かったが、漸次慣れるに従い工作にも自身がついてきたようである。

 工賃も建具職、大工職の倍増以上の支払いをうけていたし、洋家具の専門工となると世間も一目高く評価し、本人も重役タイプで通勤する傾向があった。 職人は日本全国から選択したが、外国人も多く、中国人はその二割を占め、技術が優秀でかつ勤勉であった。

 杉田屋への註文は輸入家具を真似て造るのが主体で、寸法のみ変化させるにすぎなかった。 図面(原寸図 縮尺図)によって製作する手法はここれより先、十年以上もかかったように思われる。

 全国から杉田屋の門を叩き、集った子弟は外国家具の製作手法を習得すれば、いち早く、それぞれの郷里へ帰り、洋家具製作の看板を掲げ独立した。 独立した者の内には立派に成功するもあれば失敗する者もあり、学校の先生もあれば百貨店の家具部に専属する者など杉田屋の残党は種々様々であった。

 製造をはじめて数年の間は飛ぶように良く売れた。競争相手の無い有利さとサンプル的に購入する客で杉田屋は莫大な利益を得た。勢い、経営は放漫に流れ、美人の妻女や家族は贅沢の限りを尽くした。二人の息子は家を離れ、長男は渡仏したまま消息を絶ってしまった。さしも盛業を誇った杉田屋も、明治38年(1905)の日露戦争終結の頃、閉鎖せざるを得なかった。 数年後杉田屋の流れを汲むと思われるメーカーが福岡、大阪、神戸、横浜、東京に出現し、全てソリッド(むく材)製の重厚な家具を市場に提供した。そうした家具の風潮は、杉田屋が廃業した明治38年から大正初期(1905〜1920) 頃まで続いた。

 看板にも和洋家具、西洋家具の文字が消えて、「家具」だけに吸収されていった。


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