日本の家具のルーツを訪ねて(3)

 

 明治から大正にかけての日本は正に日の出の勢い、好景気の波に乗って家具の需要は旺盛を極めた。廃藩置県から公、候、伯、子、男爵となった宮家からの註文、又、三井、三菱、岩崎などの財閥からの註文。これらに応えるため勿論、残業が深夜に及ぶ日も稀しくなかった。

 それまで衣類、雑貨を多く商っていた百貨店は家具部を拡大し、従来の日本家具類を一隅によせて、新しい配置転換を行い、力あるデパートは直営の工場まで造って、客の購買欲に備えた。

 「三越」は麻布に、「富士屋」(後に改名し川崎の六郷に移った。今の三越製作所)を造った。「高島屋」は京都、大阪の中間地点に「高島工作所」を、「阪急」は「阪急製作所」を大阪の豊中に造った。売るのも造るのも同一の資本のことだけにそのウマ味は特段のものがあったであろう。

 さて、杉田屋閉店まで籍を置いて頑張った人々はほんの数名であり、次の二人は特に忘れてはならない大先輩であり、大恩人でもある。
 「小林 福三」氏については既に東京家具業界史に紹介されているが、再びとりあげてそのご苦労をしのびたいと思う。杉田屋が廃業したのち、明治45年に家具製作を専業として独立した第1号、といえるであろう。彼の長女は足立ベニアに嫁いだということである。

 「吉見 誠」府立工芸学校の開設準備を当初から手伝い、漸く開校するや、そのまま木工・彫刻の教師となり、人気のある先生として退職(癌のため)するまで築地、水道橋と数多くの生徒を指導した。

  家具工芸を設計から製作まで一貫して理論的に解明することを教育する学校が、明治初期に二校も設立されたのは家具業界にあって一大福音である。 東京府立工芸高等学校は明治40年創立、入学資格は中学(旧制)二年修業か、高等小学校卒業以上となっていた。校舎は築地本願寺前。 芝浦の工芸専門学校は創立明治43年、入学資格は中学卒業又は同等以上。校舎はJR田町駅前であった。 府立工芸の志願者は規定以上の資格を持つ者が多く、大学出の若い学士さんは生徒の中に入ると、気の毒なほど貧相に見えた。



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