日本の家具のルーツを訪ねて(7)

 大正12年9月1日(1923年)関東大震災は、一夜にして、東京、横浜の大都市を灰燼(かいじん)に帰した。震度7余りの都市型地震は、日本歴史開闢以来はじめてのものであろう。 幸い難をまぬがれた人々はそれぞれの伝手を求めて、焼跡にバラックを急造するなど、政府もまた、復興局を臨時に設けて復旧に官民あげて努力した。

 災害の後一年足らずの間に、とにもかくにも東京、横浜の復興は、工場は再開し、商売は仕入品を頼りに始まった。 家具類は、名古屋、大阪の仕入品や、飛騨の高山、北関東・東北の群馬、福島等から製品を仕入れて販売した。 物の無い時であったので、造れば売れる状況であった。従ってインフレ的傾向はあったものの、製品の交流は激しかった。そのような復興景気は、大正の終り近くまで続いた。

 東京は、西の方へと発展していった。この頃、「文化住宅」という言葉が流行した。 それは、玄関を入るとすぐ四畳半ないし六畳の小さい応接室をつくり、台所には簡単なテーブルと椅子をおいて食事した。 応接室の屋根は赤い瓦でふいたので、「文化住宅」というのがすぐ解った。東京の中心が漸次西方に移る構想は、すでに新宿地区を東京副都心にする計画がその頃固まりつつあった。 東京都民の水瓶であった淀橋浄水場が廃止せられて、この時代の東京都民の水瓶は利根川からひき込むことに変えられて、膨大な新宿西方地区が、東京都副都心に変貌していった。

 震災後の好景気も、大正の終わり頃に終焉をつげ、昭和の代に入ってから、ようやく不況の様相を呈しはじめた。 その頃、「大学は出たけれど・・・」という流行語が生まれるほど就職難の時代になりつつあった。

 商工省は、昭和3年(1928年)特に東北地方の貧困に配慮し、宮城県仙台に産業工芸試験所を創設して、初代所長に国井喜太郎氏を命じ、この方面の工業、工芸の振興をはかった。 この産業工芸試験所には、芝浦工芸の卒業生が数名入所して、新しい木材工芸の研究に励んだ。 特に、豊口克平氏が雪中に体を沈めて人間工学を研究したり、剣持勇氏は天童木工に出向いて、成型合板の特性を実験したり、所内一同で、純木製の飛行機を試作することに成功するなど、数々の話題を残した。

 一方、国際情勢は、日々厳しくなり、学校の教育はもっぱら軍事訓練に追われて、学業どころではなく、遂に昭和6年(1931年)に満州事変が勃発し、世をあげて非常事態に入っていった。 統制経済も、次から次へと新たな規制が敷かれて、一切の趣味、贅沢は禁止せられた。



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