日本の家具のルーツを訪ねて(4)

 文科系の多い教育行政に、木工、機械、金属、印刷を科目に実地と理論を併せ教育する学校の誕生は、文化日本の一大進歩に大きな貢献となったであろう。ちなみに、木工での創立当初の職員スタッフは、次の通りである。

 芝浦工芸--木桧恕一氏、西員(?) 氏
 府立工芸-- 加納四十二氏、吉見誠氏、坂田秀太郎氏、築島棟吉氏

 なお、木桧先生と築島先生は数年後、芝浦工芸に移籍された。この二校は後年、学制改革が行われた際に次のように昇格し、降格した。即ち芝浦工芸は大学に昇格されて千葉県松戸に移転し、府立工芸は都立工芸として普通高校に格下げされ、築地から水道橋に移った。

 学制改革は一様に各校とも格上げされたにもかかわらず、府立工芸のみ都立なる故に一斉に普通高校なみに扱われる(府立一中も同じ)とは、築地時代に克苦勉励した者(O.B) にとって納得のいかぬ話である。この二校から卒業生が飛び出して数年が経つと、家具は様変りといえるほど充実した、高度な品質を持つようになり、洗練された工場が各所に現れた。

 アメリカで修業した工芸学校の築島棟吉先生はクラシックを得意とし、生徒にも徹底的に指導して「ジャコビアン」「チッペンデール」など様式家具の図面を描かせた。したがって築島先生の門下生は世に出てからも、クラシックを専門に描き続けた。岩瀬要三氏や桂田温氏は築島流を継ぐ一門の特待生ともいうべきか。 芝浦の工芸や府立工芸の卒業生は殆んど地方に出ず、東京近辺に落ちついてしまった。 この頃、就職口は「技術屋」なら娘一人に婿十人の状態であった。卒業間近い生徒や学生は、複数(官民を問わず)の相手から入社勧誘を受けていたから、行く先は意のまま、気のむくまま自由勝手である。 サラリーマンになるのを嫌い、卒業と同時に自主独立する豪傑もあれば、気の合う何人かの同志と一緒にグループを作って設計専門事務所の同人として、活躍する者もいた。

 家具工場の産出する製品がレベルアップするにつれ、内外の建築家はこぞって日本の家具の工作技術を注目するようになり、やがては協調して後世に記念すべき美の殿堂を残す偉業を成し遂げた。特に教会内部の造作類は殆んど建築技師の設計指導で、家具工場のスタッフが協力して完成したものが多い。

 特に聖路加病院のチャペルは、アメリカの建築技師バーガミニー氏が数回にわたり、来日して「寿商店」の工場を使って大正末期に完成したものである。

 このように現在日本にある古いチャーチやチャペルは他国の建築技師と日本の職人の工作技術の協調によってできたものが多い。


〈訂正〉2月15日号本文中、「芝浦工芸専門学校」の創立が「明治43年」とあったのは「大正10年」の誤りです。訂正します。



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