日本の家具のルーツを訪ねて(5)

 大正年間に入って家具の需要は一日増しに盛んになっていった。それに応えたのは、いずれも日本全国に散った杉田家の亜流であるメーカーが大部分であった。

 その頃、店頭販売の店も目につき出した。例えば、大阪のみずさわ商店、京都の宮崎商店、名古屋の誠工舎、東京では、芝の小林福三商店がその走りであった。東京の銀座通りには、睦屋、宮沢商店、芝田村町の角に鳥羽商店、レンガ通りには、寺尾商店、小沢慎太郎商店、職種は違うがそのレンガ通りの入口の角には堀金物店があった。また佐久間町の福沢商店、木下家具、その他アメリカ屋等々。不思議と田村町付近に集まっていた。

 寿商店は、店が芝金杉橋で、工場は麻布永坂にあった。その工場はやがて昭和4 年、お隣りの二源商会を買い上げ、大きくなっていった。また旭家具装飾株式会社は、小林福三氏の指導のもとに、大正9年、創立した。これらは、大規模の家具メーカーであり、家具業界の先駆者といえよう。

 続いて府立工芸の卒業生が世に出るにおよんで横浜に三光家具や関西にいずみやが出来るなどこれらは規模こそ小さいがみな独立して営んでいった。にわかに大も小も、家具業界に花が咲いた。

 ところで、これまで述べてきた家具は、いずれも国産品であったが、これに前後して、輸入品ではあったけれど日本の家具屋の店頭に曲木家具が登場したのである。 そもそも曲木家具とは、ブナの木を曲げてあらゆる形の優美なイスに造りあげることで、発明者は、ドイツ人のミヒヤエル・トーネット。彼は、1796年生れ。父親のすすめで10 才の時より家具職人を目指して、修業すること10年。家具職人の試験に合格。23才の時より独立、五人の息子に恵まれ、彼らが後にトーネット工場の大戦力となる。 日本が江戸末期の頃、ウィーン、チェコ、ハンガリー、ポーランド、ドイツハノバーと、五ヶ所に工場を設け、従業員はなんと一万人を越し、年間八万五千脚もの生産高を記録した。
 その曲木家具が日本に入ってきたのは約90年前、明治末期、第一が大阪のイズミ家具工芸、第二が東京曲木、そして第三が明治43年、秋田県の湯沢に、曲木秋田木工株式会社が発足した。 日本で一番先に曲木椅子を生産した工場はどこであったか定かでないが、日本曲木椅子の権威者である故長崎源之助氏(元秋田木工(株)会長)の回想記によれば、明治37年農商務省の役人がドイツから木を曲げて椅子を造る機械を三台買い込んで来たようである。之を大阪に取付けて作動した。一台は東京日暮里に、残り一台は東北の秋田木工へ。その曲木機械は、80年後の今日も今尚稼働している。

 曲木家具は、宮家をはじめ、病院、裁判所、教会などにも広く使われ、量産が出来るに至った。特筆すべきことは、第一次大戦時、チェコスロバキヤ、シンガポール、ボンベイ、ホンコン等に日本製の曲木椅子が輸出され、トーネット製品に優る評価をうけたことである。



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