日本の家具のルーツを訪ねて(8)

 昭和6年(1931年)満州事変から始まり昭和20年(1945年)の終戦に至る14年間、日本は完膚なきまでに叩きのめされた。 幸い、戦禍を逃れて復員した人々も瓦礫となった国土の市街地を眺めて長嘆息をせざるを得なかった。

 ところで昭和3年、仙台に創設された商工省管轄の産業工業指導所は、その後、関西支所を大阪に開設、また本所を東京の池袋に移し、戦争を堺にそれ以前、それ以後と木工業界に大きな指導を与えた。

 たとえば、金属の代用品造りに努力した。生活用具から「引手」「喋番」の類まで、統制下にもかかわらず、これほどまでに、と感心するほど、幾多の製品を提供した。 また終戦間近には、信州の松本の大きな木工所の場所をかりて陸軍のおとり機である。 "はやぶさ" "飛竜" などを試作。図面とともに、各木工所に指示したりもしていた。

 そうこうしているうちに終戦、さて、復興となるとまず資材を探さねばならない。統制下ではヤミ市場に頼らざるを得ず、すべての製造業者は、資材(金属・木材)の入手を待ちこがれた。 この時、日比谷のお掘り端にある第一生命ビルを全部占拠していた「GHQ」より家具の注文が入った。日本政府に対して、米英豪の占領軍の家族の宿舎(Depcnding House)の建設を命じたのである。

 建物は勿論のこと、家具、内装の数は限りなく多く、これを短期間に要求通り調達する事は、至難のわざであった。

 この要請を工業技術庁(2、3年後に工業技術院となる)がうけとめ、その中の産業工業試験所(産業工業指導所が、戦後、津田山、下丸子と移転後、名称も変更)にその具体的な実務を依頼した。 産工試の設計課長であった豊口克平氏がGHQ に再三訪問し、設計仕様について打ち合せ、それを都道府県の長を通じて全国の木工業者へ発注した。

 しかしながら、大量であるばかりでなく、そもそも機械設備があり、かつ技術者のいる中、大工場でなければ受注することはできなかった。 それでも、東京都庁の奥谷貞夫氏が担当技官となり、東京では十数社、その他東北地方、関西方面からも優良な会社の協力を得ることが出来た。

 問題の資材は、GHQが率先して集め、材木は主に北海道から、金属は統制下にあったものを放出することによりまにあわせた。



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