日本の家具のルーツを訪ねて(11)

 家具の種類は、「コーヒーテーブル」「エンドテーブル」「ダイニングテーブル」「アームチェア」「スツール」「ソファ」「イージーチェア」「チェストドラワー」 「トイレットテーブル」「ベット」のシングルとダブル等々。

 これらの設計や仕様(スぺック)は、「GHQ」の指導で、工業技術院が受け、実務を産業工芸試験所が担当した。 「GHQ」の承認を受けてから「P・D」と呼ぶ発注伝票が「S・P・B」(特別調達庁) から業者に直接わたる。 だが、そのスペックは、繊細を極め、たとえば、モクネジ一つにしても長さからメッキの厚さまで規定されていた。

 不慣れな日本の職人は、この細かい仕様に手を焼いたが、それが合理的に作図されているので、かえって仕事はやりやすく、数量も多いので能率はあがる一方であった。 電力も豊富で、一般住宅は夕方になると、停電されたが、この「D・H」工場は夜間になってもそのようなことはなく、深夜まで灯火が煌々と灯り、近所の羨望の的であった。

 話は前後するが、日本政府は「GHQ」からこの要請を受けるや急ぎ、特殊法人「S・P・B」を創設して「D・H」家具の調達に取り組んだわけだが、その組織は、元・三井物産の幹部が多く、主要な部署に就いて運営したため、業者との接渉が、スムーズに行われたのであった。

 しかし、ここに問題が二つあった。その一つは、この注文を消化出来る能力のある工場を探すことと、いま一つは工場を探しあてても、そこの経営者が、占領軍の家族住宅の家具を精神的な抵抗を感じずに、気持よく、生産出来るかどうかということである。

 都内の工場は、昭和20年3月の大空襲で人家といわず、工場といわず、メチャクチャに破壊されたため、東京都内の工場は、わずかに十数社。それでも、東京都は、東条課長や奥谷技官を中心に、かねがね、都、出入りの家具生産業者を招集して、この二つの問題を解決すべく、熱心に懇請していたため、なんとか、期待に応えることが出来た。 東京のみならず政府は、各都道府県に指令し、焼け残った工場の動員を計った。近県はもとより、遠く山形、秋田、宮城、山梨、静岡、名古屋方面まで足を延ばして、有力工場の発掘につとめた。


〈訂正〉 前号記事中、含水率のところで「温度の高い日本で」とあるのは「湿度の高い・・」の誤りです。訂正します。



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