日本の家具のルーツを訪ねて(9)

 さて満州事変から終戦に至る14年間の内地の状態について一言触れておく必要があろう。

 男子は、昭和6年までに兵役検査を受けた者は、特別身体に障害がある者以外は、全員招集された。兵役を免れた者も軍需工場に徴用工として強制労働に執かせられた。 戦況が日々不利になるにつれ国民の衣食住はだんだん窮屈となり、昼夜不問、女子はモンペ、男子は国民服にゲートル巻きという服装であった。

 満州事変を機に政府は国会で「非常時」態勢の突入を宣言し、新聞、ラジオも、これに同調した。国民は進んで耐乏生活に入った。 料亭は閉鎖し、それを徴工動員の宿舎に改造し、洋食屋もセルフサービスの大衆食堂(キップ制)と様変りした。 家庭で使うガス、電気をはじめ、水道の類まで量的使用制限を受けるなど、勝つまではと、一切の欲求を抑えた。 これを今日の生活に比べたら、天と地ほどの違いといっても過言ではあるまい。

 それでも内地に残った農村では婦人を中心として、けなげにも農産物の増産に励み、出荷に努め、疎開の子供たちまで餓死するような事態はなかった。 疎開してきた学童をも含めて立派に留守を守ってくれた。後々考えてみると、日本の今日あるのは、日本の農村で、戦時中、婦人層が頑張った事は忘れることができない。

 戦争の悪夢から逃れて異国の地から帰ってくる復員兵士は、日本の港に着くやいなや、それぞれの故郷に向った。 妻子のもとで、心身ともの疲れを癒し、ポツポツ本業を始める準備に取りかからねばならない。

 まず資材と機械工員が必要である。長い統制経済の管理下におかれていた内地には、産業につながる物質はなかったが、業者の強い要請によって初めて、最初の原木(丸太)の払い下げが認可された。 官有林、民有林が世に出廻った。これを受け入れるために各所に「製材林産協同組合」が設立された。

 家具製造工場は、官有林、民有林を管理する県下の営林署に出向いて入札し、現物を入手する事に努力した。 しかし、せっかく入手した原木も、それを製材して板材や角材にするのには、特別の大型製鋸を必要としたので、業者は各地の営林署附属の製材工場や木場と称する材木集配地の工場に原木を持参し、目的の材料を取得する状態であった。 その順番を待って入手した材料とて、すこぶる微量で物の役にもたたない。(而もそれらは建築材ばかりで家具用材には不向きである) 戦火から逃れた工場も復員した技能者も、材料や木工具の入手を一日千秋の思いで待ちこがれた。



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