日本の家具のルーツを訪ねて(10)

 世に「皇天(かんてん)の慈雨(じう)」という言葉がある。 それはまさに「GHQ」(連合国軍総司令部)から降ってきた家具の大量注文のことであろう。大雨であったといえる。

 戦いにこそ敗れたが、武運強く命を全うして復員した兵士(産業人)を生き返らせたものは、この目を見張らせるような注文の山であった。 そもそも「GHQ」とは米、英、豪の連合軍で、勿論、米軍が主をなしていた。 終戦となるやいなや、連合軍の将兵は日本の各地に上陸し、皇居前の第一生命ビルに本部を置き、主要都市にも駐在した。 当面は、日本人の邸宅に寝泊りし、専門の将校住宅の建設を待った。この将校住宅はディペンデントハウス(以下D・Hの略称)と呼ばれ、注文は「GHQ」から日本政府に弁償の意味を含めた調達命令で要請された。 進駐軍の将校たちの住宅を短い工期で数十万戸(数量不詳)、建てるというのである。

 「D・H」は、南は沖縄から北は北海道まで軍用基地に一斉に建てられた。三尉以上の住む3LDKで、各間取りは、日本のマンションより遙かに大きい。 とはいっても、壁はつかず、全部ペンキ仕上げであったから、短い工期にも拘らず、要請通り落成していった。「D・H」の完成を待って国から将校の家族がどしどし来日してきた。

  話は前にもどるが、この「D・H」に納入する家具類の大量注文が、緊急調達命令として、日本政府に要請された。 しかしながら、内地の山も河も昔のままであったが、産業資材は、ことごとく回収され、金属類は、釘一本に至るまで献納され、公園の柵から橋の欄干までとりはずして撤収されていたし、木材も前号に述べたように、原木のみ統制からはずされた状態であった。 また、焼け残った工場も機械は外され、工員も金属類は強制買上げとなっており、さすがの腕利き職人も手も足も出ない状態だった。

 家具を構成する資材には、堅木の乾燥材をはじめ、接着剤、布地、塗料等々、数限りなくあるが、驚いたことには、これらはすべて軍の権力と配慮で支給されたのである。勿論、木工機械も修復して使えるようになった。 交易営団という半民半官の役所も出来て、「D・H」家具の製造に大いに力を貸してくれた。

 「D・H」家具の主材はオーク(楢)で、日本ではめずらしくない材料であった為、取扱いには慣れていたが含水率が以外に厳しく、13% 以下を要求された。 しかし、温度の高い日本で使うのなら、これほどまでの乾燥は必要なかった。



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